◆◆◇◆ ラビリンス ◆◇◆◆ 01 ――― 夢は繰り返す、微かな違いを伴って,


 蟻の巣のような凝った構造。
 白磁のような床や壁。うすく色づいたそれらは汚れを知らぬように美しい顔を晒している。

 レストランにも似た場所。多くのテーブルが集う部屋に、ヨルンは居た。
 少し狭い椅子の四脚あるテーブルに、ソファの用意された寛げる和洋折衷の食卓。そのどちらもが家族で使うかのような、四人用のものだった。

 周りは騒がしい。朝食に降りてきた食堂のような騒がしさ。
 幾人もの人が動き回っている。

 ヨルンは前を見た。
 向かい合って座る相手の顔は、自分と同じで。
 その中身は友人のものだった。
 でも、それが少ししか奇妙に感じられない。
 それに気づく、ほんの僅かな違和感。

 周りを見れば、小奇麗な顔ばかり。
 しかも、どこかで見たことがある気がする顔が、多々あった。

 それはよく知らないのに、おぼろげならばそれとわかる、という厄介なものだった。
 それでいて、忘れていた知り合いの顔ではない。
 そこにそんな感慨はないからだ。
 どこにでも居るようで、事実、自分の世界にしか存在しないような顔立ちの人々。

 その大方が席につくと、給仕が始まる。
 席は、決められていたかのように、空き無く埋まっていた。
 給仕の配る料理は、どれも出来たてで、熱い湯気をもうもうと吹き出していた。
 こちらはどれも同じような雰囲気の持ち主であった。

 どこか無機質で、無関心。
 そんな言葉がぴたりと似合うような決して温もらない空気・・・。

 和やかな雰囲気。賑やかな食事が今日も始まる。
 皆、嬉しそうに楽しそうに、ヨルンにはざわめきにしか聞こえないことを喋る。

 取り残されたような、空虚な感じ。

 これは、何だろう?

 大人たちの食卓には欠かせないらしいワインのグラスが色鮮やかに輝いて見えた。
 上の明かりを反射したそれらは、酷く光を放っていた。
 眩しい・・・。
 目を凝らすと、思いがけないものが見えた。
 淀みなく動く給仕たちが、大人たちにはまだしも、少年少女たちの隣にまでワインの入ったグラスを置いていたのである。
 よく見ると、それは大人も子供も関係なく、どんなに幼い者にまで、平然と配られていた。
 まるで、何かの証を立てるように。
 どこまでも、平等に拘ったみたいに・・・。

 しかし、それをここの住人たちは、何の不思議もなく、それこそ当然のように受け入れていた。
 皆同じ量だけ、口に含む。
 そこには当然としているがゆえに、疑問の欠片も見出せない顔が、ただあった。
 料理自体は大人と子供で区別されているようで、量も種類も全く違うのに。

 何故だろう・・・。

 ヨルンはひとり、受け入れがたいことのように、それを拒んだ。
 拒むしかなかった。
 何か言いようのない恐ろしさに体が拒絶したのだ。

 ヨルンはそれを残した。
 気が付けば、自分のもとにも置いてあった芳しい香りのワイン。
 何かを食べた記憶などなかったが、皿の上は綺麗に片付いていた。
 ただ、その空の皿を見た瞬間、どこかで自分の腹の膨れるのを感じた。
 未だかつてワイン類を飲んだことのなかった所為か、どこか得体の知れない不気味さを感じ取ったこともあって、ヨルンは飲む前から既に気持ち悪くなっていた。

 ・・・ああ、そうか。気分が悪いのだ。そうか、だから・・・。

 だから、自分はおかしいのか。だから自分は皆と違うように感じてしまうのか。
 そのことが、どれほど自分の心を楽にしたか、ヨルンは考えるまでもなく、吐息を吐くことで知った。

 口さえ付けてなかったワインに気づいた給仕のひとりが、滑るような足取りで近づいてきた。

「どうさないました? よりによって、”恵みの雫”をお残しになるだなんて」
 驚きを目だけで微かに表し、陶磁器のような給仕は言った。
「別に・・・咽喉が渇いてないだけです」
 その全てが滑るようななめらかな給仕の頬が、微かに強張ったように見えた。
「そうですか。しかし、ここではものを残すことが許されておりません。どうぞ、お飲みください」
 ものを残すことが許されてない。
 そんなこと、知らなかった。過去にもこういうことは、果たしてなかっただろうか。
 躊躇っていると、すかさず給仕の色も温度もない声がかかる。
「さあ、早くお飲みください。でないと、他の者が欲しがりますから」
「・・・どうしても、飲まなくてはいけないんですか?」
「ええ、もちろんです」
「・・・後で飲んではいけないのですか?」
「いけません。食事の時以外、飲食は基本的には禁止されておりますので」
 ごく、事務的な口調でやりとりする。
 ああ・・・。
 ああ、と嘆息する。この人には話は通じないのだ、と酷く納得する。
 だって、彼らは、命令通りに動く、自動人形のようではないか。
 生身の人間には到底思えない。それを感じさせる、何かを潜めているのだから。
 融通も何も、利きやしないに違いない。
「・・・ああ」
 まるで、心が通じたみたいな、給仕の声。
「ご気分が、よろしくなかったのですね? よく見るとお顔の色も悪い。
 気づけずにいて申し訳ありませんでした。それなら、仕方ありませんね。他のものは残しても構いませんから。そのワインだけお飲みください」
「えっ?」
 皿の上は、綺麗に片付いていたはずだが・・・。
 見ると、己の前にある皿の上には、たくさんの野菜が盛ってあった。
 信じられなくて、隣を見ると、隣の皿が空。
 ヨルンは嫌なものを見るように、隣の自分と同じ顔をした人物を見た。
 隣は澄ました様子で、口を拭っているばかり。
「それだけお飲みください」
 再度掛かる給仕の声。
「飲みたくありません」
 隣を睨んだまま、噛み付くように言う。
「何故です?」
 隣は、やっとヨルンの視線に気づいたように、こちらを見た。
 しかし、横目でちらりとだけ見ると、目が合ったことすら気づかなかったと言うように、また、薄く目を閉じて、澄ました顔で無関心を決め込んだ。 
「何故、飲まないのです?」
 また、ちらりと伺うようにこちらに目が動く。
 確かに絡み合ったと思った視線は、しかし、隣の口を拭いたナプキンをしまう動作の中、切れてしまった。
「早くしないと食事の時間が終わってしまいますよ?」
 給仕はヨルンがそちらを見ていなくても、何も気にするでもなく、真摯な声で訴えるように言う。
「そうなれば、困るのはこちらの方です」
 見続けていると、頭の中がぐちゃぐちゃになってしまって、目が廻りそうな予感がした。
 それでも、視線を固定したままでいると、隣は俄かにこちらに顔を向けた。
 そして、にっこりと幸せそうに微笑んだのだ。
 人の良さそうな笑顔。
 あっけにとられるように見ていると、その視線はちらりとワイングラスの上で止まった。
 早く飲んじゃえよ、と言わんばかりである。
「さあ、早くお飲みください」
 そこに給仕の示し合わせたかのような声が降ってくる。
「・・・」
 憮然とした。
 しかし、それは何に対してであったのか。
「飲みたくないんです」
 隣で微かに笑った気配がした。
「飲みたくないですって?」
 隣を向こうとしたヨルンは、しかし、給仕の重さを増したような声にその動きを凍りつかせた。
「それはいけません。それは許されないことなのですよ?」
 瞳が、呪縛の意を持ったかのように、重く外せないものになっていた。
「あなたはどうやら、本当にどこかおかしいようだ。悪いのは気分だけじゃないのでしょう?」
 探るような視線が、どことなく痛い。
「どうしても、飲みたくないのですね?」
 必要以上に確かめようとする、質問の意味を図りかねた。
 しかし、ヨルンは不覚にも、何かにつられるように頷いてしまっていた。
 それは操られたようなくらい、順応に。子供よりも無心に。
 しばらくこちらを覗き込むようにして、見下ろしていた給仕は、緊張を解くかのように息を吐くと、
「・・・わかりました。いいでしょう」
 と、何時の間にか乗り出していたその身を引くと、背筋をぴんと伸ばした。
 それに合わせて、半ばソファに埋まりかけていたヨルンは、その距離を保つように、給仕に合わせてその身を起こした。
 給仕は、中性的な顔立ちで、中性的な声を出し、少年めいた少女のような機敏な中にも柔らかさを含む動作をする。―――それはまるで、存在し得ない夢の産物のようだった。実在することなど、有り得ないくせに、誰よりも存在感を持つ。
 不思議な存在なのだ。特別な存在だった。
「いいでしょう。さあ、私について来てください。特別室までご案内いたします」
「特別室?」
「ええ。何か問題を起こしても、そこにいる限り一時の猶予が与えられる部屋です」
「・・・何をしに行くんですか」
「あなたには特別室で休憩していただきます」
「・・・わざわざ、特別室で?」
 何故か納得がいかなかった。
「なにか不満でも?」
 見透かしたような薄い瞳の色に、ひやりとする。
「特別室には医師がおりますので。ご気分が悪いのでしたら、ちょうどいいかと思ったのですが?」
「そう、ですか」
「はい。それでは行きましょうか」
 もはや、付いて行く他なさそうだった。
 席を立たされる。背中にそっと添えられた手が、促してくる。軽く添えられただけの手に、これほどの力を感じるとは。
 振り払おうとすれば簡単に叶うそれは、しかし、一度振り払ってしまえば、二度と添えられることがないと、暗示でもされているかのように、よくわかる。
 だからなのだろうか。ヨルンはそれを払うことができなかった。
 そうして、容易く外れる枷に囚われた。
 見届けるような視線が体の表面を滑る。
 見上げると,給仕は満足げに笑んでいた。
 その笑みを次の瞬間には、完全なまでに消し去り、ヨルンと同じ食卓を囲んでいた人たちに向かって、こう言った。
「皆様はお食事を、どうぞ、続けてくださいませ。こちらの方を特別室までお連れして来ます。こちらの方は、ご気分が優れないようなので、少々休憩が必要のご様子。
 医師に診せに参りますので、多少のお時間が掛かることと思います。ご了承くださいませ」
 同意の気配。頷く気配。
 隣に座っていた誰かの態度が、妙に気になったが、囚われの小鳥のように、身動きひとつ叶わないまま、大げさに頭を下げた給仕に連れられて、その場を後にした。
 誰かの「馬鹿だね」、という言葉が微かに耳を打った。
 振り向こうとしたら、さりげなく給仕に邪魔され、目が合うと安心するように微笑まれた。
 どうしていいかわからなくなり、少し離れようとしたら、背に添えられていたはずの手が、己の右手首にかかっていたのに、今ごろ気づいた。
 途方に暮れたように見ているのに気づいたのか、微かに力を緩められ、いつでも払うことのできるようにしてくれた。
 しかし、そうされても払うことのできないヨルンにとっては、むしろむず痒いような奇妙な緊張を感じるだけだった。



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